2015年9月21日月曜日

『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』(後編の方)のこと

※以下はfacebookに投稿した文章ですが、(一般公開の設定になっているとはいえ)内容的に外の目に触れないのもフェアじゃない気がするのでこちらにもあげておきます。映画をホメるにもクサすにも楽しいのが一番だとは思いつつ、堅苦しい話が4000文字近く続きます。面倒だと感じる方はスルーなさってください。

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 まず今年の映画界で起きた未曽有の大惨事だと思う。少なくとも「こんなはずじゃなかった」と関わった人のほとんどが思っているのではないか。いくらなんでもコレが望んだカタチの完成形だとは到底思えないのだ。
 『進撃~』前編については賛否両論が渦巻いたが、賛成側の大半は「見るべきところはあった、後編にはさらに期待」という意見だったように思う。
 まず自分は、基本的にこの考え方には与しない。映画は技術とセンスが有機的に絡み合うことで成り立つ表現であり、部分的な“良さ”や“勢い”が突出して作品全体を救済することはあっても、あらかじめ観客側に「いいところ探し」を期待するのはお門違い。「ちゃんと冒頭から最後まで惹き込んでくれよ」というのが観る側の立場でいい。
 もちろん「巨人が人間を喰らうゴア描写が良かったからアリ!」という意見も否定はしません。ただ自分には、そういう「見るべきディテール」を重視するにはストーリーもセリフも映画のテンポも冗長で薄っぺらく、あまりにも障害物が多すぎた。
 特にキャラクター描写の軽さには辟易する。アニメみたいなセリフ回しが上滑りしているせい? 陳腐で不自然な台本が悪い? 展開が強引で付いていけないから? 理由はいくつも考えられるが、とにかく誰も彼もが記号としてしか存在できていない。物語上の役割ばかりが目につき、作る側の都合で配置された駒にしか見えないのだ。
 もはや記号化が過ぎて可笑しかったのが、三浦貴大が演じた主人公エレンをやたらと敵対視するジャン。敵視する理由は後編で多少説明されるが、「主人公に突っかかるけれどやがて和解するライバル」という定番の役回りを担い、バカのひとつ覚えのようにエレンに悪態をついたりケンカを吹っ掛けたりする。
 普通、こういう役割にはそれなりにいいところがないとただのバカにしか見えない。ジャンにはまったくと言っていいほど活躍する局面がない。後編にはあるだろうと思っていたら後編にもない。掛け値なしのバカキャラだったのだ。いつか見返すのだろうと観客に期待させて、とんでもない逆どんでん返しである。
 こういう演出上の「〇〇要員」以外のものが欠落したキャラばかり。石原さとみが演じたハンジが例外的に印象に残るのは「石原さとみ」という類型化されたイメージを壊すハミ出し感ゆえで、映画全体の単調のおかげで余計に突出して見える。それも後編では早くもマンネリ化が始まってしまっているけれど。
 で、後編のことである。いくら前編にノレなくても、クライマックスに向けて盛り上がっていくはずだから前編より退屈な映画ができるわけがないと思っていた。希望的観測じゃなくて常識的な考えとして。それがまさか前編超えの退屈な映画が作れるだなんて。底だと思っていた基準を、さらに下回ってきたことに心底驚いた。
 ダメ要素を挙げるにも時間とともに詳細は記憶からも滑り落ちつつある。ただ、どうしてあんなにも説明セリフを喋って叫んで時間を取るのか。アクションが数珠つなぎに繋がっていく中でストーリーやキャラの心情が見えてきて欲しい、というのは高望みか理想に過ぎないのか? ともかく映画の大部分が弁論大会で、それも使い古された定型パターンばかり。うるさいよ。喋るならせめてなにか面白いことをしながらにしてもらえませんでしょうか。
 しかも前後編を通じて、各場面で主軸になるキャラ以外が「展開待ち」といった風情で立ち尽くしている局面がやたらと多い。なんで待ってんの? 緊迫した状況じゃないの? 血気盛んなはずのジャンとか、随分と悠長すぎやしませんかね。
 「なんでこんなに喋るのか?」という驚きを除けば、あとは驚くことは何もない。なるようになって、なるように収まるのみ。子供の頃に何回も観たテレビアニメのエピソードをいくつもシェイクして、平均値をはじき出したみたいに意外性がない。
 意外性で言えば前編では巨人の描写に「他ではないものを作ろう」という攻めの姿勢を感じたが、今回の巨人VS巨人の戦いにはかなり既視感があった。70年代、80年代の懐かしい特撮ヒーロー物を彷彿とさせるレトロ風味で、微笑ましくも懐かしかったが、スケール感はテレビサイズに縮小されてしまう。
 仮にオマージュだったとしても、井口昇映画みたいなB級ノリに見えてしまうのはどうなのか。意図的だったとするなら、宣伝が醸す大作感が鑑賞のジャマをしているのかも知れない。
 あとセカイノオワリが主題歌というチョイスは楽しい冗談として、オールディーズの「エンド・オブ・ザ・ワールド」を延々と聴かされるくだりは前編のアイリッシュ調のBGMやリンゴのくだりに匹敵するくらい恥ずかしい。
 まとめると、『進撃』の後編は手垢のついたストーリーが記号でしかないキャラクターたちの一方通行な弁舌によって進行する映画である。原作もアニメ版も知らないので、純粋に実写版だけを観ての判断として。
 前後編に分けたことも致命的だった。足しても3時間少々、間延びしている箇所を削れば2時間ほどに収まる気がするくらい中身が薄い。そんな密度で、それぞれに一本の映画分の満足度を期待しても叶うわけがない。分けたのはあくまでも東宝の判断で監督や脚本を責める謂れはないかも知れないが、続けて観ればそれほど気にならなかったかもしれない粗まで余計に目立ってしまっている。
 
 期待値との落差でいえば数年に一本、いや10年単位でトップ争いに食い込める失望レベル。そうか、こちらの事情を言わせてもらうと、自分は期待していたのだ。傑作かどうかはともかく「おお!」と唸らされるに違いないと。きっと「むむ、ヤラレタ!」と嫉妬にも似た感情に包まれるのだと。誰に期待していたか? やはり町山智浩という人と、樋口真嗣監督にである。
 樋口真嗣といえば『エヴァンゲリオン』のようなアニメ作品でも平成ガメラシリーズの特技監督としても相当にワクワクさせてもらってきた。さかのぼればシリーズ中盤まで伸び悩んでいた『ナディア』という番組に惹かれたのも、ストーリーを一旦休止状態にして類型的だったキャラクターの個性を打ち出した「無人島編」のおかげだった。庵野秀明監の助っ人的にその間の監督を務めたのが樋口真嗣だった。
 映画監督としてキャラクターが魅力だった単独作にはまだ巡り合っていないが、いつか映像面でも内容的にもグイグイ惹き込む作品を作ってくれるはずという期待は捨てずにいた。自分の世代にとっては、同時代にリアルタイムで背中を見続けてきた伝説なのだもの。
 共同脚本の町山さんについては説明するまでもない。映画メディア随一の論客であり、戦う姿勢と説得力が伴った面白い批評を手本のように読んできた。作り手に回ることはたやすいことじゃないし、批評家生命にもかかわるリスキーな挑戦に飛び込んだことには応援の気持ちしかない。町山さんがどこまで関わったのかは知らないが、『進撃』がつまらない=町山さんの失敗だとも思わない。こういう映画ができてしまうシステムに絶望するばかりだ。
 しかし町山さんが、前編の賛否両論に先んじて「今回の実写化は巨人や壁に立ち向かうような戦いだった、戦いもせずに悪く言う連中がいる」といった予防線を張るような発言したことには本当にガッカリした。「語る人間よりも作る人間のほう偉い」というクリエイター礼讃が正論とされがちな世の中で、語る立場から戦ってきたのは町山さんではなかったか。それが突然の宗旨替えではないか。
 もちろん「作る人間」がいなければ「作品語り」は成立どころか存在もしないが、作り手が駄作にしようと思っているわけがないことは百も承知で、結果について云々するのも批評の役割なのだ。公に発言するかは別として「いいもの」を探るには相対的に「よくないもの」が存在することは避けられない。一般の観客はもっとダイレクトに「つまらない」ものを「つまらない」と断じていい立場にいる。「オレたちは戦った=がんばった」と主張されても観る側は「そりゃそうでしょう」と言うほかない。
 もうひとつ厄介なのは、映画メディアにおける町山さんの存在の大きさ。ビッグネームであるご本人が、ネット上での論争やケンカを買うだけでなく焚きつけることが多々あり、また信奉するファンも多いだけに、余計な口を出すよりも黙ってスルーしたほうが得策という気分は同業者の中で広がっていた気がする。特にネットでどんな袋叩きにあうかわからない時代に、喧嘩屋に喧嘩をふっかけるのは自殺願望に近い。
 でも自分だけでなく多くの人が、「映画を語る側」から町山さんが参加することで、日本の大作映画に新しい風が吹いてくれることを願っていたはず。苦難だらけのいばらの道だったことは想像に難くないが、届けられたものが失敗作だった以上「惨事が起きました」という現実はちゃんと共有しておきたい。『進撃』はそれくらいの話題作だったはずだし、せめて「面倒だから語りたくない」空気が漂う現状だけは打破したい。でないと同調圧力と人情が映画批評を根絶やしにしかねない。
 「面白い、最高」というのも自由だが、なにかに気兼ねして映画の良し悪しが堂々と語れないのなら批評、評論、ライター業に関わっている人は全員信用を失ってしまうんじゃないか。『進撃』後編については春日太一さんがいち早くネット上で論評されていて、実はそこに付け加えることはあまりない。でも大人のたしなみで駄作をスルーする以上の問題が『進撃』にはある気がしています。映画メディアの死活問題すら代表していると思うのだがいかがでしょうか。

※追記:ほとんど放置状態のブログ上ですが、ちゃんと名乗っていないので、村山章というフリーライターが書いている旨を記しておきます。町山さんとは仕事等で数回お会いしたことがありますが、おそらく町山さんはこちらのことを認識されていない程度かと思われ、特に個人的なつながりや利害はありません。