2016年5月16日月曜日

映画『さようなら』:竹の花はなぜ咲くのか?(ネタバレあり)

ちょうど深田晃司監督がカンヌに参加されているタイミングということもあり、前から書きますと約束したのに先延ばしにしていた映画『さようなら』の話を。ネタバレします。あと長文。


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「さようなら」は、今の日本で、空気に色がついているくらいの濃厚さで感じざるをえない閉塞感や終末感をビジュアルに落とし込んだ、かといって社会を声高に告発するのではなく、滅びを前にした諦念そのものを静かに綴った人間ドラマです。舞台は近未来の日本ですが、幼い頃に難民としてに渡ってきた白人女性と、彼女の世話をするお手伝いロボットの物語でもあります。

映画の中で、重要なモチーフとして登場するのが「竹の花」の逸話。竹は数十年に1回しか咲かないらしく(120年という種もあるらしい)、自分の死期が近いと自覚している主人公のターニャにとっては、おそらく生きて見ることが叶わない。

それでもなお、ある日咲くかも知れないと毎日のように竹林を見にいくのですが、ターニャはアンドロイドのレオナの外に誰に看取られることともなく、そして咲き誇る竹を見ることなく死んでいく。

それからどれくらいの歳月が経ったかはわからない。半年なのか数十年なのか、とにかくターニャの傍で緩やかに朽ちていたレオナが突然動き出す。そしてレオナが向かった先には咲き誇る竹の花が広がっていた、というのが映画のラストでした。

理屈をこねるよりも、繊細な詩情を品のいい日本茶をすするように味わうのがベストな作品だと思いますが、敢えてこねてみるなら、人間の時間とアンドロイドの時間、そして大自然の時間が別々に流れていて、竹の花を見たいというターニャの想いをレオナが受け継ぎ、ひとつの願いが叶って終わる一種のハッピーエンディング、という解釈になる。

《深田晃司監督は真性のロマンチストか?》

ですが、自分が映画を観終えて感じたのは、なにかが釈然としないという違和感だった。本当にそうなのだろうか? それまでこの作品が描いていた諦念や達観は、滅びという甘美なロマンティシズムも含んだものではあったけれど、そんなわらしべ長者のような「イイ話」だったっけか。いやわらしべ長者は例えとして違うな。違うけどいいのを思いつかないので代案は出しません。ごめんなさい。

死んでいった人間のほのかな願いを、アンドロイドが叶えてあげる。モノでしかなかったはずのアンドロイドに気持ちが宿った。ヒューマンSFとしてはわかります。でも『さようなら』は近未来が舞台とはいえ、明らかに現在の日本で起きているリアルを反映した世界観なわけで、ひとりの願いが叶ったからとて「よかったね」とはとても思えない。きっと、もっともっと大きな視点からの「不吉な暗雲の下で営まれる日常のはかなさ」みたいなものを自分が感じていたからでしょう。

つまり映画のラストで感じた違和感とは、この映画ってこんなメロドラマだったっけかと言う疑問。でも、実際に画面に映り、この目で見た物をごまかすことはできない。ということは、深田監督は自分が思っていた以上にロマンチストだったのではないか。まあ、そんな風に思っていた。別に映画の解釈や評価に決まった答えはないですが、自分にとって『さようなら』は、最後の最後で監督のロマンチスト側に針がギュンと振れた作品、なのだと思い込んでいました。

ここから先、答え合わせコーナーに入ります。映画に答え合わせは必要ないというスタンスもあると思いますし、それぞれの感想を濁す余計な情報になる場合もあるでしょう。その辺が気になる方はやはりスルーで。

《ラストシーンに隠されていた不吉な予兆》

「答え合わせ」っていうのはちょっと言い過ぎですが、先日深田監督とお話しする機会があったので監督に直接ぶつけてみました。「なんであのラストにしたんですか?」と。

「知ってる人は知ってるんですが、実は竹って花が咲くと全部枯れてしまうんです。中国では古くから、竹の花が咲くと不吉なことが起きると言われているくらいで。だから花は咲きましたが、あの後には滅びが待っているんじゃないか。そこは隠しトラックと言いますか、自己満足だとしても、自分の中ではダブルミーニングだったんです」

竹の運命については知ってる人は知ってるのでしょう。実際「竹の花」で検索したら即「120年にたった一度だけ花を咲かせ、一斉に枯れていく…竹はミステリアス ...」という記事がすぐヒットしたくらいでしたし。

でもまあ自分は、竹の花が滅多に咲かないってこともこの映画で知ったし、その上で裏の意味には1ミリたりとも気づかなかった。そして映画のメロドラマ的な要素が、もっと大きな「滅び」という皿の上に乗っていたのだとしたら、自分が『さようなら』に抱いていた違和感が消えて、やはり決してネガティブなだけでなない意味での「無常感」にまつわる作品だったのだなあと合点がいったわけです。

おそらく竹の花について知識があった人は、『さようなら』のラストに不吉な匂いを感じたりもしたでしょう。一方でネットを覗いていたら、竹の花が一斉に枯れるという知識なしに、「ずっと咲かなかった竹の花が咲いた、花というのもは繁殖のために咲くもの、これは竹でさえもこの地を見捨てたということではないか」と個人ブログで分析している方がいらっしゃった。慧眼だと思います。違和感を抱きながらも「監督ってロマンチストだなあ」程度のところで思考が止まっていた自分が恥ずかしい。

深田監督には「全然気づきませんでした、それってパンフとかに載っているべき情報ですよね。結構取材で話したりしました?」と訊くと、「いや、あんまり喋ってないです、どっかに書いてくださいよ」と仰っていたので、お言葉に甘えて記事として残しておきます。


『さようなら』(2015年/日本/112分)

監督・脚本・プロデューサー : 深田晃司
原作 : 平田オリザ
アンドロイドアドバイザー : 石黒 浩
プロデューサー : 小西啓介
プロデューサー・録音・音楽 : 小野川浩幸
撮影 : 芦澤明子

ブライアリー・ロング
新井浩文
ジェミノイド F
村田牧子
村上虹郎
木引優子
ジェローム・キルシャー
イレーヌ・ジャコブ


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