2018年7月7日土曜日

死刑制度はまったく人間の手に負えないので廃止すべきだと思っている理由。

死刑制度について思うことを書きます。最初に言っておくと、自分はこの制度に反対の立場です。多くの人が、是なのか非なのか、いろいろと考えてしまうタイミングだと思います。自分も長い間、なかなか答えが出せない難しい問題だと思っていました。   以下に書くことは自分の体験ですが、誰かを説得する気はありませんし、激しい議論を吹っかけたいわけでもない。ただ、もしかすると、自分がそうだったように、誰かしらの参考になるかも知れないと思うのです。  
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  話は15年前にさかのぼります。映画監督のアラン・パーカーが『ライフ・オブ・デヴィッド・ゲイル』という新作のキャンペーンで来日し、取材をしたことがありました。   『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』は、死刑反対運動をしている女性が殺害される事件が起きて、デビッド・ゲイルという死刑廃止論者の男が容疑者となるミステリーです。   映画の内容は観ていただければいいとして、自分はアラン・パーカーにある質問をしました。「この映画は、死刑制度のシステム的な欠陥をテーマにしていますが、人が死をもって人を裁くという人道的な側面についてはどうお考えですか?」と。   アラン・パーカーの答えは明快なものでした。   「人道的な問題は、優先順位としては高くないと思っています。問題は、人間がシステムを運用する以上、必ず間違いを犯す、ということで、死刑はその間違いを正す可能性を永遠に奪ってしまうものだから、私は反対の立場を取ります。実際、死刑制度にまつわる問題で最も多いのが冤罪なのです」と。   「人道的な問題の優先順位は高くない」という言葉は、理屈ではわかっても、当時の自分にはどこか納得できないものがありました。ですが、次第に、人道的か否かという考え方は感情論でしかなく、明確な基準を持つことは難しいと思うようになりました。また、あまりにもケースバイケースにすぎて一概に判断できることではない。   ただ、パーカーが言った「人間は必ず間違いを犯す」という点についてはまったくその通りで、なんの反論も浮かびませんでした。そして法のシステムは、その間違いに左右されない形であるべきだと考えます。   アラン・パーカーがいった言葉について考え込んで、自分なりに出た答えは、「人間には、死刑制度を適切に運用するほどの能力はない」ということでした。死刑とは極刑であり、文字通り執行してしまうと、取り返しがつかない。死刑制度が「取り返しがつかない間違いをしでかすシステム」であるのなら、それは捨てるべきではないか。   松本智津夫らを擁護する気は一切ありません。感情的には、また道義的には、死刑になっても仕方がないと思っています。   ただ、死刑制度そのものが不完全で、取り返しのつかないものなのである限り「死刑は選択肢からなくすべきである」というが自分の考えです。「死刑にふさわしい罪人を処罰するために、たまに間違って殺される囚人がいても仕方ない」という考え方は絶対におかしいと思うからです。ある制度を支持することは、その制度のもたらす結果について責任の一端を負い、覚悟を持つことだと思うのですが、この責任は自分には絶対に負えない。
  「死刑制度は、人間の手に負えない」 自分が反対する理由はそれだけです。死刑が残酷であるか、非人道的であるかについては、それぞれの価値観や倫理観、実体験などによっても変わるでしょう。自分自身、確固たる答えはありません。ただ法のシステムについては、厳然たる理由付けがないといけないでしょう。
  だからこそ、死刑を承認した法務大臣が、会見で事件被害者・遺族・関係者の苦しみについてコメントし、彼らのために死刑が必要であったように語るのは非常に違和感がありました。裁判官が判決を言い渡す時ならいざ知らず、法治国家の法務大臣である以上、執行の理由は、100%法律と法律が定めた手続きによってのみであるべきです。死刑を執行する当事者が、倫理観をふりかざして死刑を肯定するのなら、それはもはや「復讐」の代理人でしかありません。   今回のオウム真理教元信者7名の死刑執行については、大きな驚きと不安を感じているので、自分の意見を整理するためにも、文章にまとめてみました。人目に触れる場所に置くことで、わずかな人数だったとしても、なにかしらの参考になれば幸いです。

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