2016年1月24日日曜日

知らないひとの人生がわっさわっさと降ってくる本。


結構前に買ったまま寝かされていたミランダ・ジュライのインタビュー本「あなたを選んでくれるもの」を、一度手に取ったら半日で読み終えた。自身の監督・主演作『ザ・フューチャー』の脚本執筆に行き詰った彼女が、フリーペーパーに売買広告を出す人たちに興味を抱き、片っ端から電話をして訪ねて回る突撃取材モノ。
いや、そこはミランダ・ジュライなんで突撃取材という勇ましさはなく、短く分けられた章に一組ずつあらわれる名もない一般人の濃密さに取材者本人が動揺し、読んでいるこちらも彼らの人生の断片を受け止めきれずに胸が苦しくなってくる。
とにかく一つの章を読み終えるごとに軽い休憩が必要で、一気に読み通したら『サウルの息子』並みに消耗するのではないか。
そして読み終えてみれば『ザ・フューチャー』の壮大なメイキングとしても機能している辺り、表現者の貪欲さってすごいなと。特に気まぐれで始めた取材が『ザ・フューチャー』の舞台裏や中身とシンクロしてくる終盤は、ノンフィクションとは思えないほどドラマが立ち上ってくる。
ミランダ・ジュライはもの哀しくもキラキラとした長編映画デビュー作『君とボクと虹色の世界』にノックアウトされ、第二作の『ザ・フューチャー』では暗い閉塞感がたちこめた内容に軽く途方に暮れたのだが、この本を読んだ以上『ザ・フューチャー』を観直さずにはいられない。
同業者でもあんまりミランダ・ジュライ観ているひとって多くない気がしますが、とりあえずこの本から入っても興味掻き立てられるんじゃないでしょうか。ささやかだけど凄味のある本でした。

2015年9月21日月曜日

『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』(後編の方)のこと

※以下はfacebookに投稿した文章ですが、(一般公開の設定になっているとはいえ)内容的に外の目に触れないのもフェアじゃない気がするのでこちらにもあげておきます。映画をホメるにもクサすにも楽しいのが一番だとは思いつつ、堅苦しい話が4000文字近く続きます。面倒だと感じる方はスルーなさってください。

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 まず今年の映画界で起きた未曽有の大惨事だと思う。少なくとも「こんなはずじゃなかった」と関わった人のほとんどが思っているのではないか。いくらなんでもコレが望んだカタチの完成形だとは到底思えないのだ。
 『進撃~』前編については賛否両論が渦巻いたが、賛成側の大半は「見るべきところはあった、後編にはさらに期待」という意見だったように思う。
 まず自分は、基本的にこの考え方には与しない。映画は技術とセンスが有機的に絡み合うことで成り立つ表現であり、部分的な“良さ”や“勢い”が突出して作品全体を救済することはあっても、あらかじめ観客側に「いいところ探し」を期待するのはお門違い。「ちゃんと冒頭から最後まで惹き込んでくれよ」というのが観る側の立場でいい。
 もちろん「巨人が人間を喰らうゴア描写が良かったからアリ!」という意見も否定はしません。ただ自分には、そういう「見るべきディテール」を重視するにはストーリーもセリフも映画のテンポも冗長で薄っぺらく、あまりにも障害物が多すぎた。
 特にキャラクター描写の軽さには辟易する。アニメみたいなセリフ回しが上滑りしているせい? 陳腐で不自然な台本が悪い? 展開が強引で付いていけないから? 理由はいくつも考えられるが、とにかく誰も彼もが記号としてしか存在できていない。物語上の役割ばかりが目につき、作る側の都合で配置された駒にしか見えないのだ。
 もはや記号化が過ぎて可笑しかったのが、三浦貴大が演じた主人公エレンをやたらと敵対視するジャン。敵視する理由は後編で多少説明されるが、「主人公に突っかかるけれどやがて和解するライバル」という定番の役回りを担い、バカのひとつ覚えのようにエレンに悪態をついたりケンカを吹っ掛けたりする。
 普通、こういう役割にはそれなりにいいところがないとただのバカにしか見えない。ジャンにはまったくと言っていいほど活躍する局面がない。後編にはあるだろうと思っていたら後編にもない。掛け値なしのバカキャラだったのだ。いつか見返すのだろうと観客に期待させて、とんでもない逆どんでん返しである。
 こういう演出上の「〇〇要員」以外のものが欠落したキャラばかり。石原さとみが演じたハンジが例外的に印象に残るのは「石原さとみ」という類型化されたイメージを壊すハミ出し感ゆえで、映画全体の単調のおかげで余計に突出して見える。それも後編では早くもマンネリ化が始まってしまっているけれど。
 で、後編のことである。いくら前編にノレなくても、クライマックスに向けて盛り上がっていくはずだから前編より退屈な映画ができるわけがないと思っていた。希望的観測じゃなくて常識的な考えとして。それがまさか前編超えの退屈な映画が作れるだなんて。底だと思っていた基準を、さらに下回ってきたことに心底驚いた。
 ダメ要素を挙げるにも時間とともに詳細は記憶からも滑り落ちつつある。ただ、どうしてあんなにも説明セリフを喋って叫んで時間を取るのか。アクションが数珠つなぎに繋がっていく中でストーリーやキャラの心情が見えてきて欲しい、というのは高望みか理想に過ぎないのか? ともかく映画の大部分が弁論大会で、それも使い古された定型パターンばかり。うるさいよ。喋るならせめてなにか面白いことをしながらにしてもらえませんでしょうか。
 しかも前後編を通じて、各場面で主軸になるキャラ以外が「展開待ち」といった風情で立ち尽くしている局面がやたらと多い。なんで待ってんの? 緊迫した状況じゃないの? 血気盛んなはずのジャンとか、随分と悠長すぎやしませんかね。
 「なんでこんなに喋るのか?」という驚きを除けば、あとは驚くことは何もない。なるようになって、なるように収まるのみ。子供の頃に何回も観たテレビアニメのエピソードをいくつもシェイクして、平均値をはじき出したみたいに意外性がない。
 意外性で言えば前編では巨人の描写に「他ではないものを作ろう」という攻めの姿勢を感じたが、今回の巨人VS巨人の戦いにはかなり既視感があった。70年代、80年代の懐かしい特撮ヒーロー物を彷彿とさせるレトロ風味で、微笑ましくも懐かしかったが、スケール感はテレビサイズに縮小されてしまう。
 仮にオマージュだったとしても、井口昇映画みたいなB級ノリに見えてしまうのはどうなのか。意図的だったとするなら、宣伝が醸す大作感が鑑賞のジャマをしているのかも知れない。
 あとセカイノオワリが主題歌というチョイスは楽しい冗談として、オールディーズの「エンド・オブ・ザ・ワールド」を延々と聴かされるくだりは前編のアイリッシュ調のBGMやリンゴのくだりに匹敵するくらい恥ずかしい。
 まとめると、『進撃』の後編は手垢のついたストーリーが記号でしかないキャラクターたちの一方通行な弁舌によって進行する映画である。原作もアニメ版も知らないので、純粋に実写版だけを観ての判断として。
 前後編に分けたことも致命的だった。足しても3時間少々、間延びしている箇所を削れば2時間ほどに収まる気がするくらい中身が薄い。そんな密度で、それぞれに一本の映画分の満足度を期待しても叶うわけがない。分けたのはあくまでも東宝の判断で監督や脚本を責める謂れはないかも知れないが、続けて観ればそれほど気にならなかったかもしれない粗まで余計に目立ってしまっている。
 
 期待値との落差でいえば数年に一本、いや10年単位でトップ争いに食い込める失望レベル。そうか、こちらの事情を言わせてもらうと、自分は期待していたのだ。傑作かどうかはともかく「おお!」と唸らされるに違いないと。きっと「むむ、ヤラレタ!」と嫉妬にも似た感情に包まれるのだと。誰に期待していたか? やはり町山智浩という人と、樋口真嗣監督にである。
 樋口真嗣といえば『エヴァンゲリオン』のようなアニメ作品でも平成ガメラシリーズの特技監督としても相当にワクワクさせてもらってきた。さかのぼればシリーズ中盤まで伸び悩んでいた『ナディア』という番組に惹かれたのも、ストーリーを一旦休止状態にして類型的だったキャラクターの個性を打ち出した「無人島編」のおかげだった。庵野秀明監の助っ人的にその間の監督を務めたのが樋口真嗣だった。
 映画監督としてキャラクターが魅力だった単独作にはまだ巡り合っていないが、いつか映像面でも内容的にもグイグイ惹き込む作品を作ってくれるはずという期待は捨てずにいた。自分の世代にとっては、同時代にリアルタイムで背中を見続けてきた伝説なのだもの。
 共同脚本の町山さんについては説明するまでもない。映画メディア随一の論客であり、戦う姿勢と説得力が伴った面白い批評を手本のように読んできた。作り手に回ることはたやすいことじゃないし、批評家生命にもかかわるリスキーな挑戦に飛び込んだことには応援の気持ちしかない。町山さんがどこまで関わったのかは知らないが、『進撃』がつまらない=町山さんの失敗だとも思わない。こういう映画ができてしまうシステムに絶望するばかりだ。
 しかし町山さんが、前編の賛否両論に先んじて「今回の実写化は巨人や壁に立ち向かうような戦いだった、戦いもせずに悪く言う連中がいる」といった予防線を張るような発言したことには本当にガッカリした。「語る人間よりも作る人間のほう偉い」というクリエイター礼讃が正論とされがちな世の中で、語る立場から戦ってきたのは町山さんではなかったか。それが突然の宗旨替えではないか。
 もちろん「作る人間」がいなければ「作品語り」は成立どころか存在もしないが、作り手が駄作にしようと思っているわけがないことは百も承知で、結果について云々するのも批評の役割なのだ。公に発言するかは別として「いいもの」を探るには相対的に「よくないもの」が存在することは避けられない。一般の観客はもっとダイレクトに「つまらない」ものを「つまらない」と断じていい立場にいる。「オレたちは戦った=がんばった」と主張されても観る側は「そりゃそうでしょう」と言うほかない。
 もうひとつ厄介なのは、映画メディアにおける町山さんの存在の大きさ。ビッグネームであるご本人が、ネット上での論争やケンカを買うだけでなく焚きつけることが多々あり、また信奉するファンも多いだけに、余計な口を出すよりも黙ってスルーしたほうが得策という気分は同業者の中で広がっていた気がする。特にネットでどんな袋叩きにあうかわからない時代に、喧嘩屋に喧嘩をふっかけるのは自殺願望に近い。
 でも自分だけでなく多くの人が、「映画を語る側」から町山さんが参加することで、日本の大作映画に新しい風が吹いてくれることを願っていたはず。苦難だらけのいばらの道だったことは想像に難くないが、届けられたものが失敗作だった以上「惨事が起きました」という現実はちゃんと共有しておきたい。『進撃』はそれくらいの話題作だったはずだし、せめて「面倒だから語りたくない」空気が漂う現状だけは打破したい。でないと同調圧力と人情が映画批評を根絶やしにしかねない。
 「面白い、最高」というのも自由だが、なにかに気兼ねして映画の良し悪しが堂々と語れないのなら批評、評論、ライター業に関わっている人は全員信用を失ってしまうんじゃないか。『進撃』後編については春日太一さんがいち早くネット上で論評されていて、実はそこに付け加えることはあまりない。でも大人のたしなみで駄作をスルーする以上の問題が『進撃』にはある気がしています。映画メディアの死活問題すら代表していると思うのだがいかがでしょうか。

※追記:ほとんど放置状態のブログ上ですが、ちゃんと名乗っていないので、村山章というフリーライターが書いている旨を記しておきます。町山さんとは仕事等で数回お会いしたことがありますが、おそらく町山さんはこちらのことを認識されていない程度かと思われ、特に個人的なつながりや利害はありません。

2014年10月27日月曜日

コリン・マクフィーの続編?

昔のmixiからの転載。2005年の日記だけど、いまだにこの本読み終えていない。
その間にamazonではキンドル版まで出ていた。時代は進んでいくなあ。

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【注意:バリ舞踊やガムラン好き以外にはムダに長文】

バリ島に興味を持ち始めると、 
ウォルター・シュピースと、 
コリン・マクフィーの名前によく出くわす。 

ともに30年代にバリで暮らした芸術家で、 
シュピースは画家、マクフィーは音楽家。 
ふたりともバリ舞踊やガムラン音楽に興味を持ち、 
シュピースは当時廃れていた伝統的な男性合唱をもとに、 
現在のケチャの形を作ったひとでもある。 

一方、マクフィーは、ガムラン音楽の研究と採譜に努め、 
現地のガムラングループを再興させたり、 
昔ながらの王宮ガムランの楽器を復元させたりした人。 
また、ウブド近郊のサヤン村のアユン川沿いに屋敷を構えて、 
五つ星ホテルが立ち並ぶ、現在のサヤン発展の祖となった。 

マクフィーには、バリ滞在の日々を綴った 
「熱帯の旅人」という著作があり、 
バリの文化、音楽の案内書として優れているだけでなく、 
バリ旅行好きのバイブルみたいになっている。 

と、そこまでは知識として知っていたのだが、 
「熱帯の旅人」の邦訳は現在絶版で、 
本屋で探してもなかなか見つからない。 
ところが、先月のバリ旅行中に、ウブドの貸本屋で発見。 
かなり出来すぎなシチュエーションだが、 
ウブド滞在中の、読書の友として重宝した。 

3日ほどで読み終えたのだが、 
ウワサにたがわぬオモシロさ。 
それまでなんとなく観ていたバリ舞踊やガムランの公演も、 
急に、違う角度が見え始めたような気がしてきたから不思議。 
これぞまさにバリ好き必読の書だと、 
今更ながらに納得したのだが、 
帰りの空港で、「熱帯の旅人」の続編のような本を発見した。 

「Dancing Out Of Bali」というタイトルで、 
50年代に、グヌン・サリの欧米遠征ツアーを実現させた 
ジョン・コーストという英国人が著者。 

この人がたいへんな経歴の持ち主で、 
太平洋戦争中には日本軍の捕虜となり、 
ビルマでタイ・ビルマ間の線路建設に借り出されるという 
『戦場にかける橋』そのままの体験をする。 
その後、インドネシア大統領になるスカルノの顧問として、 
インドネシアの独立運動に関わる。 
独立後は、ガムラン音楽に魅せられて、 
一流の楽団を連れて欧米ツアーを行おうと思い立ち、 
政府の職を辞して、バリ島にやってくるのだ。 

ちなみに、巻頭の紹介文によると、 
ボブ・ディランを最初にロンドンに連れてきたり、 
ラヴィ・シャンカールを西洋に紹介したのも、 
このジョン・コーストさんだそうな。 

そのコーストが書いた本が、 
なぜ「熱帯の旅人」の続編かというと、 
コーストはマクフィーとは面識がないのだが、 
「熱帯の旅人」を熟読していて、 
マクフィーが雇っていた料理人を探し出したり、 
マクフィーが引き取ってダンサーに育てた少年を 
(もう大人になっているが)自宅に同居させたりして、 
バリにおけるマクフィー一家を再結集させてしまうのだ。 
しかも、このくだりが、 
少しずつ「熱帯の旅人」のメンバーが集まってくる、 
「七人の侍」パターンなのが面白い。 

さらにマクフィーゆかりのプリアタンの歌舞団グヌン・サリが、 
またも解散状態に陥っていたところを再結成させて、 
特になんのつてもない状態から、 
欧米ツアーにまでこぎつける……はずなのだが、 
実はいつまで経っても、そこまで読み進めることができない。 

理由はひとつ。 
当たり前のことだが、この本、英語で書かれているのだ。 
いくら電子辞書と首っ引きでも、遅々として進まない。 
しかも、このところバカみたいに忙しくて、 
本を読めるのは、電車で移動している間だけ。 

ネットで探してみたけれど、日本語版などありそうもなく、 
続きが気になって、もどかしくってしょうがない。 

とにかく、 
グヌン・サリとか、マンダラ翁とか、 
踊りの天才マリオとか、サンピ少年とか、 
そういったキーワードに反応する人なら 
絶対に読んで損はない本だと思います。 

読み終わってからオススメするのでは、 
果たしていつになるか見当が付かないので、 
フライング気味に、紹介してみた次第です。 

http://www.amazon.co.jp/dp/B00850ZMYG/
ちなみに序文を書いているのは「ジュラシックパーク」社長の弟ことサー・デヴィッド・アッテンボロー。

(mixi 2005年11月21日)

2014年10月26日日曜日

リプレイスメンツとリチャード・リンクレーター。

再結成したリプレイスメンツが精力的に活動しているのがめでたいことと、
リンクレーターの新作が公開されることもあって、
ずいぶん前にmixiに書いた日記を再掲。

mixiを長らく放置してますが、多少の公共性のあるものは
備忘録的にこちらにサルベージしようかとも思います。

【2005年9月20日】

先日、『スクール・オブ・ロック』の 
リチャード・リンクレイター監督に電話取材した。 

実際には、新作『がんばれ!ベアーズ』の取材だったのだが、 
最後に、以前から個人的に気になっていたことを訊いてみた。 
えらくノリノリで話してくれたので、 
どうせ誌面にはのらないから、ここで多少修正しつつ採録。 

-『スクール・オブ・ロック』にジャック・ブラックが小学生たちにロックの歴史を教えるシーンがありますが、黒板に書かれたヒストリー・ツリーに、The Replacementsの名前がありましたよね? 

リンクレイター イエス! 

-僕的には大喜びだったんですが、日本でもアメリカでもロック史を代表するほど有名なバンドではないのでは……? 

リンクレイター うむむ。でもさ、彼らには熱狂的なファンがいっぱいいるよね! 実はあの黒板にはほかにもあまり知られていないバンドやミュージシャンの名前がたくさんあるんだ。The ReplacementsとPaul Westerberg(The Replacementsのフロントマン)は、僕自身が大好きだからどうしても書かずにはいられなかったんだよ(笑)。あのツリーを作るのは最高に楽しい作業だったなあ。なにせ監督だから誰であれ自分のお気に入りを書くことができたからね。 

-The Replacementsを“書かずにはいられなかった”だなんて本当に嬉しいです。 

リンクレイター こんなところでファン心を共有できて僕も嬉しいよ。そういえば知り合いがPaul Westerbergの友達でさ、彼に『スクール・オブ・ロック』を勧めてくれたんだよね。「面白いし、アンタのバンドの名前も出てくるから」って。それでPaul Westerbergも『スクール・オブ・ロック』を観てくれて、とても気に入ってくれたらしいんだ。もちろんお世辞かも知れないけどさ、映画を通じてWesterbergとコミュニケーションが取れるなんて最高にハッピーだったよ! 

とまあ、 
ファン以外にはどうでもいいやり取りでしょうが、 
キュメロン・クロウに次ぐMats&Westerbergファンの映画監督として、 
ここにリチャード・リンクレイターを認定したいと思います。


2014年9月13日、ミネアポリス/セントポールでのリプレイスメンツのライブ会場。地元感と芝の香りが気持ちいいローカルな球場でした。

ジャック・ブルースを観た(22年前に)

ジャック・ブルース。案の定というか当然というか、訃報の肩書は「元クリームのベーシスト」。

クリームは、クラプトンの「ライブの途中でギターを弾くのを止めたら、ほかの2人は気づいた様子もなく弾き続けていて、その時に終わりだと思った」というエピソードが好きですが、正直ジャック・ブルースについてはあんまりよく知らない。ウチのCD棚にはクリーム数枚と、グラハムボンドオーガニゼーションくらいしかないし。

ただ二十歳のときにライブを観た。ロンドンで。

貧乏旅行でテントシティに泊まり、マクドナルドでさえ高いと思えるロンドンでは、当時ピカデリーサーカスの地下にあった日本の弁当屋で鮭フライ弁当を買うのが精いっぱいだったが、せっかくなんでライブには行ってみたい。

ストーンズ所縁ってことでライブハウスのマーキーに行ってみたら(当時の)当世風のベタなヘビメタバンドがやっていて拍子抜けだったんで、せめて知ってるひとのライブを観ようとタイムアウトを開いたらジャック・ブルースの名前が飛び込んできたのだ。

ガイドブックには治安が良くないと書かれた地域の、古い劇場を改装したライブハウスは、それなりにリッチそうな服装の白人の中高年ばかりだったが、自分以外に2人だけアジア系の女性がいて、ちょっと話したら日本のひとで、「今日はドラムがサイモン・フィリップスなの、ジャック・ブルースはどうでもいんだけど、サイモンが素晴らしいのよ」と力説していた。

ステージにはドラムセットと、ベースアンプ、そしてマーシャルのギターアンプにクラベビのワウペダル。それだけのセッティングで、出てきたのはブルースとフィリップスと、名前忘れたけど若いバカテク系のギタリスト。

で、二十歳の自分からすればブルースの見た目はただのちっこいオッサンで、ちょっと甲高い歌声も情けなく響き、でもブルースもフィリップスもギターのあんちゃんももうやりたい放題に弾きまくっていて、その轟音に上品にワイングラスとか持って立っていたお客さんたちはなんとも反応しづらそうで、ヘンなものを観たなあという印象だけが残っている。

日本人の女性2人は「サイモン素晴らしかったわっ!」つって帰って行って、夜中にひとり、下町風の街並みをこわごわ地下鉄の駅まで歩いて、特に襲われもせずいまも生きていることを感謝します。いまさらだけどジャック・ブルースのソロでも聴いてみようかしら。

2012年11月28日水曜日

1990年のローリング・ストーンズ初来日公演




せめて月刊ペースでブログを更新しよう、と思っていたが、
ビックリするほど期間が開いてしまった。
書きたい情報はあるが、まとめる時間の余裕がない。
なんですが、急に思い立ってすげえ個人的な思い出話を書きます。
当初のもくろみから外れるけれど、まあいいでしょ。自分のブログだし。


題して《1990年のローリング・ストーンズ初来日公演》です。

先日、ローリング・ストーンズ50周年記念コンサートのチケットを取った。
何度も海外のチケットサイトで申し込む予行練習をして、
発売日の発売時間にはパソコンの前に張り付いていたけれど、
チケットは瞬殺で売り切れてしまい、その時点でキッパリ諦めるはずが、
気がついたら転売サイトでバカ高いチケットをポチっていた。
本来ならはるばるニューヨークまで遊びに行けるご身分じゃないのだが、
もう取ったんだから海を越えて行けと、ロックの神さまが言っている。

そこで昔話。


高校3年生の1月だから、もう20年以上も前のこと。
センター試験の前日、家の電話が鳴った。
受話器の向こうで、友達の大内くんが興奮して叫んでいた。

「ムラヤマ!取れたぞ、ストーンズ、取れたぞ!」

奇しくもその日はローリング・ストーンズ初来日公演の発売日で、
そういえば確かに大内くんは
「ボク、チケット取るから一緒に行こうな」と言っていた。
うろ覚えだけど、安請け合いで「ああ、行く行く」なんて、
二回くらい重ねて言った気が、する。

実はストーンズの大ファンだったわけじゃない。
中学生の頃にみんなで回して聴いたベスト盤のカセットからは、
アクの強いミックのボーカルの後ろで、
なんだか汚い(と当時は感じた)キースのコーラスが重なって、
ラジカセのチープな音質がさらに軋んで聴こえた。
正直ヘタだと思っていた。

ようやくストーンズのカッコ良さに気づいたのは高2のときで、
それも映画館で偶然出会った『花のあすか組!』の予告編。
BGMでかかっていた「サティスファクション」の
ファズの効いたあのリフとリズムに魅せられて、
それまでビリー・ジョエルに夢中だった自分は、
たぶんあの瞬間に、ロックに目覚めたのだと思う。
結局『花のあすか組!』はいまだに観てないけど、
きっとカッコいい映画だったに違いない。

とはいえアルバムなんて一枚も持ってなくて、
あったのは、ひとからもらったベスト盤LP二枚組だけ。
すごく音楽好きなひとがくれたので、
きっといい音楽なんだろう、と自分に言い聞かせて繰り返し聴いていた。
そういえばそのひとは、数年後にガンで亡くなった。
いろいろお世話になったけど、ストーンズに関しても恩人だ。

で、大内くんの話に戻ります。

大内くんだって翌日はセンター試験を受けるってのに、
必死で予約の電話をかけ続けていたというじゃないか。
早くも志望大学に受かったんじゃないかと思うくらい
嬉しさがあふれ出した声を聞いて、
「わかった、行く」以外の返事ができる鉄の意志は持ち合わせていなかった。

大学受験、という名目で上京して、親戚の家に泊めてもらうと、
テレビでは毎朝「いまストーンズが来ています」と話題にしていて、
そんなに大事件なのかと驚いた。
そして試験と試験に挟まれたコンサートの当日。
大内くんと待ち合わせて、東京ドームに向かった。
生まれて初めて入った東京ドームは、
ストーンズ初来日の興奮と熱気に包まれていた。

いや、ウソだ。ウソつきました。

東京ドーム、初めてじゃなかったです。
高2の夏に、青春18キップで鈍行を乗り継いで、
ビリー・ジョエルを観に東京ドームに来てました。
前座はインペリテリ。
対バンがフーターズとアート・ガーファンクルとボズ・スキャッグス。
で、大トリがビリー・ジョエル。
単に所属レーベル繋がりだったんだろうけど、
いま思えばこのブッキングしたひと、おかしいでしょ絶対。

なので人生二回目の東京ドームは、初来日の興奮で包まれていた。
大内くんが取ってくれたのは、スタンド席の一番後ろから二列目。
ミック・ジャガーはマッチ棒よりも小さくて、
演奏も歌もあちこちに反響して、
最初から最後まで輪唱みたいにこだましていたが、
それでもすごいものを観た。
少なくとも、そう信じたし、そういう風に憶えている。

この日のために綿密な予習してきた大内くんは、
「ライブ盤の歓声に、日本人が「カッチョイイー!」って叫んでるのが聴こえるねん。
 ボクも、その曲のその瞬間に「カッチョイイー!」って叫ぼうと思う。
 たぶん、好きな人はみんな、そこで「カッチョイイー!」って叫ぶと思うねん」
と、言う。

自分も事前にライブ盤のその箇所を聴かされたのだが、
言われてみれば「カッチョイイー」のようでもあり、
まったく違う雑音のようでもあり、正直判然としない。

それでも待ち構えたその瞬間、大内くんは満を持して、
予告通りに「カッチョイイー!」と叫んだ。
一応、叫んだ。おずおずと、少し小声だった。
巨大なドームの端っこで、聞こえてきた「カッチョイイー!」は彼の声だけだったけど、
彼はやった。やってのけたのだ。
あの日、確かに大内くんは、ストーンズに向かって「カッチョイイー!」と叫んだのだ。

大内くんとライブに行ったのはそれが最初で最後だった。
いや、もしかすると二度目だったかも。
大阪城ホールに男ばかりで連れ立って行った
バナナラマのライブに一緒にいたような気もするが、思い出せない。
とにかく、それが大内くんと行った最後のライブになった。

その後、大内くんは「いつかこの曲を恋人とデュエットするのが夢やねん」と言って
ポーグスの「ニューヨークの夢」という曲も教えてくれた。
その夢がかなったかどうか知らないが、
2004年に、ポーグスがオリジナル・メンバーで再結成ツアーをしたときに、
久々に連絡を取って「一緒にイギリスまで観に行かないか」と誘ってみた。
自分と同じように30代になっていた大内くんは、
「行きたいけど仕事があるし」というすごく真っ当な理由で断った。
その後、2回くらい会う機会があったが、
いまは台湾に住んでいるはずで、
唯一の連絡手段であるメールアドレスもどこにあるのか見つからない。

台湾にいる大内を、もし誘ったら一緒にニューヨークに行ってくれたんかな。
また「カッチョイイー!」と叫んだかな。
自分は絶対に「カッチョイイー!」とは叫ばないと断言するけど、
ニューヨークのスタンド席で、
どこかから「カッチョイイー!」って声が聞こえてきたら、と夢想したら、
半月後のコンサート当日がものすごく楽しみになってきた。

最後に初来日公演でやった大好きな曲「SLIPPING AWAY」。
スタジオ録音だとミックもバックコーラスしてるんだけど、ライブではミックは袖に引っこんで休憩してしまうのが残念。


※追記 調べたら初来日公演でキースが歌ったのは
 「Can't Be Seen」と「Happy」だったっぽい。
 この曲をライブで聴いた気がするのは、
 たぶん95年のヴードゥー・ラウンジ・ツアーのときだな。

2012年8月10日金曜日

バリ・アート・フェスティバル(PKB)のすすめ















いろんな“初めて”体験をしてきた6月のバリ旅行。
ついに「バリ・アート・フェスティバル」にも行ってきた。

バリ・アート・フェスティバル。
通称は、インドネシア語の頭文字をとってPKB(ペーカーベー)。
毎年、6月~7月頭の一か月間に渡って開催されるお祭りである。
どんな旅行ガイドにも載っている大イベントだが、
なぜだか、実際に行ってきた、という体験談はあまり聞かないし、
具体的な情報も乏しい。

しかし、毎日毎夜、バリ芸能にまつわるいろんな出し物がタダで披露されるらしく、
ひと月ずっとロックフェス状態なのだという。

そりゃ行ってみたい。しかも滞在はフェス期間の真っ只中。
今度こそ行くべし! てなわけで、ふた晩ほと参戦してきましたよ。